Keiji Makimura's memories of the Japanese surrender - Excerpts from the Japanese content
Source : ダイヤモンド, 第 40 卷 (Diamond : economic journal 40 , 1952) - '香港降伏使 -牧村慶治 '
(https://jpsearch.go.jp/item/dignl-10294795)
Keiji MAKIMURA (aka 牧村慶治) (English) :
私の不充分な英語と、彼の不充分な日本語を合わせて見ると、何とか話が進めらけそうだ。早速、二人が中心になって、持参の資料を検討し、その場で、まにあうものは、一つ一つ解決して行った。一番問題になったのは、特攻艇である。そのとき特攻艇が二百數十隻、ある島影に待機している旨を述べたところ、これは豫期していなかつたと見えて、おどろいたらしい。一でも、わが艦を攻撃でもすれば、容赦なく砲して、すべての日本軍及軍事施設を攻撃するといつて、絶對移動を禁止する旨厳命された。
機雷は日本軍で始末しろというが、そんな時間がない。い海域に敷設されている機雷原を掃海して、英艦隊を無事に香港に誘導することは技術的 に、今日、明日にさしせまつて出来。機雷もあつて、それらが、ブカく浮いている筈だと説明したところが、しばらく、彼等が相談した結果、掃海は自分の手でやるということで、解決した。向うの命令内容もわかったしこつちの提出資料の説明も終つたので、倉皇として、私は歸還して、色々準備したい旨を申入れたところ、案外容易に承諾してくれた例の自動小銃につれられて、再び甲板に出たそこには、既に、發進準備を完了したおなじ艦載機が待つていた。搭乘員は墜つていた。その上、一人のアメリカ従軍記者が同乗することになつた。映書俳優の「ウォーレス・ビアリー」に似て肥つた男である。赭ら顔のこわそうな顔だが、アメリカ的に気さくなとこ「ろがあり、私の肩を叩きながら、「ハロー・ジョニー」などといつた。なかく親しめる男であつた。
母艦を發進したのは、七時三十分であつたくなった。不時着とにかく、飛行機が離職したときほど、うれしかったことはない。肩から、すべての重荷をおろしたときのよても見付からない。うな、すがくした氣持であつた。朝からの緊張が一度にゆるんで、私は、いつのまにかウォーレス君の背中を抱いたまい、機上で眠つてしまった。そのうちに、ウォーレス君は私をゆり起し「將校の話しでは、方向を間違えているらし、い」と告げた。下界を見ると、すでに、海ではない。夕陽に映えた雲影をうつす大小無敷の河が見える珠江のデルタ地帯にちがいない。私は、その旨を操縦士に傳えた。飛行機は大きく半圓を描いて、南に引返えしたが、なか〈香港が見付からない。時間は八時を過ぎている。視界もだんく見えなくなる。
飛行機は香港を求めて、東に西に翔ぶが、このあたりは香港と同じような島嶼が多くて、餘程慣れたものでも間違える難所である。太陽が地平線下におちてからはすつかり暗依然、香港が見付からない。母艦とは交信をつずけている。薄暗い室から、香港の灯は見えないかと、全員でさがすが、運の悪いときは、こんなもので、どうしそのうちに、操縦士から不時着するから準備せよと云つて来た。今度は、いよ//命がないものと思つた。ウォーレス君が、不時着の注意をしてくれる私は軍刀を取りはずし、書類を内懐に入れるそのうちに、高度が、だん/く低くなって速力がおちた。エンジンは止つた。兩翼が風を切って行く音だけが、ハッキリ聞える。私は目をつむった。今、着地か、今、着地かと云う氣持は、いやなものである。至神経が、何時着くかと云う點に集中されている。誰れも、何にもいわない。そのうち車輪が地上に打ち當つた。軽くバウンドしたかと思うと、ちょつと滑走したが、下が砂地らしい。速力が急に落ちて、ガクンと前のめりして、體が何かにプチ嵩つたと思つたが、あとはわからない。どれぐらい時間がたつたのであろう。
一番先きに気が付いたのが、ウォーレス君らしい狭い中で、何もかも、重なり合つて、滅茶苦茶になつている。氣が付いて見ると、みんないきていることがわかった。「あァ!助かった」そう思うと、波の音が聞えてくる。 海岸らしい。先ず、將校達がとび出し、そ「れから、私も這い出した。出て見ると、飛行機は尾翼を上にして、逆立ちしている。早速、無電機や食糧を運び出す。幸いなことに、一寸手入れすると、無電機が動いてくれた。有難い。これがために艦隊との連絡がとれた。我々は、寒くなったので火を焚き、非常用ゴム・ボートの中で寝つた。私はウオーレス君と寝たが、捻挫した左足首がいたくて、眠れなかつた。ウォーレス君の背中には、私の鼻血の跡がどす黒く残っていた。翌朝早く、水陸兩用機が着水して、我々を拾いあげ、香港に歸着したのであるが、遭難したのは、バイヤス灣であつた。香港は指呼の間にあつたのである。
英艦隊入港す艦隊の入港豫定は十二時である。命令はとどいていたが、何の準備も出来ていない。參謀長に復命して、すぐその足で、海軍ドックに動けつけた。ドックの構内は、正にテンヤワンヤの騒ぎである。艦隊の入港が掃海作業で手間取り、二時間おくれたので、まだよかつた。それでも、日本側は、つまみ出されるように、海軍ドックから、追い出された。あくる三十一日、こちらは約束通り參謀長以下關係將校數十名と共に港内碇泊の旗艦に赴いた。たつた一日の間に、港の中はがらりと疑った。